2009年12月28日

山形・蔵王の旅。

 今年(2009年)の始めのことになりますが、取材を兼ねて山形に旅行に行ってきました。本当はもっと早く書こうと思っていたのですが、シナリオのネタばれを含みそうだったのでアップを控えていたのですが……そんなことはなかった、のでしょうか?

 旅行の同行者は高校時代からの友人である黒谷知也氏。一筋縄ではいかないセンスを持った漫画を描く人です。電車に揺られるのが好きな氏と相談の上、交通手段は東京からの鈍行・始発便を使用。

 
 午前十時、降雪を確認。この時点で相当寒い。靴下二重履きにしてきて本当に良かった

 当初は奥羽本線乗りっぱなしで福島→米沢→山形を乗り継ごうとしたものの、米沢⇔山形の連絡がとっても悪いので仙山線経由で福島→仙台→山形のルートを取ることに。米沢と言えば江戸時代は上杉家中、また仙台は伊達家中の所領である。現在に至っても上杉とは仲が悪いということでしょうか。

 
 仙台駅で乗り継ぎの時に購入した駅弁。仙台駅構内には伊達政宗の像があったので写真に収めようと思ったものの、見当たらない。売店のおばちゃん曰く『移転した』そうな。あらら



 車両の中で過ごす時間は六時間強、それでは流石に退屈なので庄内市の役場から取り寄せたこちらの『最上義光 - 戦国の驍将』という本を読んで過ごしました。折角なので作者の方にコンタクトは取れないものかと事前に役場に連絡を取ってみたところ、既にお亡くなりになられたとのこと。残念。

 地元の研究者の筆らしく、最上義光を巡る様々な知名、人名を事細かに用いて出羽百万石と称賛された国を築いた最上義光像に迫ろうという一冊。一般的にある悪者のイメージを恢復させたいという気持ちが強いのか、最上義光の合理的な行動に、当時の常識を踏まえた擁護の口添えが続きます。その数、些か懇切が過ぎるという気がしないでもないですが、それだけ最上義光を梟雄視する向きが強いということでしょう。

 ただこの本、基本的には良い読み物であるものの誤字・脱字が妙に多いです。具体的には「別れて」→「別かれて」、「一切」→「一再」、「言わば」→「言はば」などの単純な表記ミスが殆どなのですが、中には「上杉謙信もまた肉親を殺し(※1)」「この堀(秀治)家というのは徳川家の譜代衆であり(※2)」などの、どうしても「?」と言わざるを得ない表記も交じっていたりして、気が付いたらペンを片手に修正作業をしがてら読み進んでおりました。

 
 そんな頭の体操も山形に着く前には終え、車窓からの風景は一面積雪に覆われていた

 午後二時、ようやく目的地に到着し、観光マップを貰った足ですぐ近くの山形城に足を運びます。

 
 尋常でなく寒い、そして人が少ない。この日は平日(金曜日)なので無理からぬことではあるが

 

 城址公園は現在遺構の復元中のようで、建機がガタガと音を立てながら作業の真っ最中でした。途中雪解け水に何度か足をさらわれそうになりながら、山形城の目玉である最上義光像を目指します。

 空は曇っているので決して撮影日和とは言えませんが、あれを見ないことには山形に足を運んだ意味がないってものです。あれは前から見とうて見とうて仕様がなかった逸品。個人的に宮城県仙台市の伊達政宗像、山形県山形市の最上義光像、そして青森県弘前市の津軽為信像をして東北の三大戦国武将銅像と位置づけており、その中でも最上義光像は序列一位だと思っているもの。そしてあの躍動感溢れる構えが生み出す勇壮さは、他の二体にはない魅力を放っています。長谷堂合戦を想定した活躍想像図であるというのも、戦国浪漫を感じさせて実によし。

 
 工事中のフェンスの脇を抜けていくと、そこには……

 


 …………


 


 びっしりと鳩!!


 留まり易いのは分かるけど!


 


 邪魔! どいてぇ!(泣)


 ……なんて心の中で訴えかけてみても、鳩ぽっぽはこちらの思惑などどこ吹く風の体。周りは順路以外10cm以上の積雪に覆われており、撮影のアングルを決めるだけでも一苦労だというのに。


 仕方なく、正面からのアオリで一枚撮ってみると……


 


 焼き鳥。


 こちら、妙に印象に残る出来事だったので『戦極姫』中の最上義光のイベントにそれとなく組み込んでいたりします。


 

 ……天候も晴れそうにないので明日の帰りにもう一度機会を窺うことにして、近くにある『最上義光歴史館』に移動。ここはHPが意外と凝っていて、2009年の大河ドラマ『天地人』の放映に合わせて最上義光のコラムを上げていたりと、なかなか意欲的な資料館。

 この隣に建っていた山形美術館を巡ってからの訪問(同行した黒谷君は収蔵物のシャガールに『まさかあるとは思わなかった』と、えたく満足のご様子)だったので時刻は午後四時、閉館の時間が近かったので入館後は館内をさっと一巡、そして受付の人に学芸員を呼んで頂き、現れた方に開封一番、私はこう質問していた。


 私「すみません、最上義守について詳しく伺いたいのですが」


 学「最上……『義守』ですか?」


 私「『義守』です!」


 ……最上義守は最上義光の父であり、最上家が婚姻政策などにより伊達家の傀儡政権に成り掛かった折、これに反発した山形地方の国人衆らが実力行使で伊達に認めさせた(※3)最上家の十代目当主である。僅か二歳で家督を継いだ彼の業績は、やがて嫡男である義光との政争に負けるという一点のみが注目され、そして歴史の表舞台から退場する。


 書籍にもその程度のことしか記されていないため、その程度の人物と言えばそれまでなのだが、しかしこの家督継承後(彼は最上氏分家の中野氏)も強大な伊達家からの度重なる内政干渉を掻い潜り、家督相続問題で荒れた最上家中を統率し、当主が義光に代替わりするまでの五十余年、最上家を存続させているのである。また『天文の大乱』の折には伊達家騒乱のどさくさに紛れて長谷堂城を奪還(※4)、その後もちゃっかりと頂いており、また先の伊達家と山形諸勢力との戦乱の中で焼失した名刹を復興させたりと、決して無能に収まる人物ではない。

 そして、この業績の裏には軍事・内政共に最上家宿老・氏家(うじいえ)家の当代、氏家定直の働きが欠かせなかったであろう。天文の大乱の時にも、義守の名代として戦場を指揮したのはこの人であり、また義守・義光親子の相克の際には重病の身を推して義守に諫言、彼に家督移譲を決意させた話は広く知られるところである。またその子・氏家守棟も最上義光の懐刀として数々の策を献策、義光の勢力拡大に貢献した。

 また、父と反目した生い立ちから最上義光は親族と謂えども容易に信用しなかった(※5)と言われるが、父・義守の死後、義光は律儀にも葬式を執り行っている。ここで『律儀』と付けたのは、この父の死がよりにもよって秀吉の小田原の陣中の出来事だからで、小田原の陣の少し前より家康と誼を通じていた義光、家康から『早急に参陣すべし』との催促を受けていたものの、所領の情勢や死期の近い父親の件やらで動くに動けなかったようである(逆に言えば、この時点では秀吉の影響力というものがどれほどのものかを正しく理解していなかったように思える)。

 時は天正十八年、結局五月十八日の義守の死去まで山形城に留まり、加えて葬式を済ませてからようやく小田原に向かったらしく、記録に依れば到着は『六月七日』のことだという。これがどれくらい遅かったのかと言えば、参陣か開戦かで揺れた挙句小田原に『遅参』した伊達政宗が秀吉と対面したのが『六月九日』と言えば分かり易いだろうか。義光も秀吉の不興を買ったようであるが、家康の執り成しによって本領を安堵される。これ以降、義光はますます家康と昵懇になっていったようだ。


 
 最上義光愛用の『指揮棒』の詳細。最上義光像が手に持っているのもこれ

 ……私見はここまでにするとしまして、最上義守の業績を詳しく求める私に対して、学芸員の返答は『もちろん、私たちが(最上義守の功績を)掘り起こさなければならないんですけどね』というもの。『最上義光歴史館』のHPには最上義守に関するコラムがあるのですが、残念ながらそれ以上の研究は進んでいないとのこと。代わりに最上氏歴代当主に縁のある寺院の資料などを譲って頂きました。

 他には、館内にある有名な『三十八間総覆輪筋兜(※6)』に勧修寺→上杉家の伝系で有名な『竹に雀』の家紋があること、そして慶長出羽合戦における長谷堂城の詳細などを質問。長谷堂城はこの翌日に行けるようであれば行くつもりだったのですが、そう切り出したところ受付の方に一言「ですがそれ、夏用の靴ですよね?」とよく分からないことを言われました。

 詳しく聞いてみたところ、東北地方などの積雪地帯は夏と冬で靴を変えるんだとか。言われてみれば尤もなことで……雪の中を歩き通しで足の中が湿っていたので、その理由は身を以て実感しました。平地である駅前すらこの積雪の有り様なので、今日明日の長谷堂城は雪が膝辺りまで積もっているのは間違いないそうで……装備を変えないことには大変だということを教えて貰い、相談の結果、長谷堂城行きは断念して本日のお宿に移動することに。

 
 山形の街路に立つ斯波兼頼像。最上家初代と言われる

 バスで一時間ほど揺られ、お宿のある蔵王に移動。この季節、蔵王の民宿はスキー利用客で賑わうのですが、自分たちは蔵王の温泉が目的だというちょっと変わったお客様になりました。お宿の人にこの温泉郷の詳しい説明を聞くと、この季節は蔵王の上の方に登ると『樹氷』が見られるとのことで、「折角いらっしゃったのならご覧になって行かれたほうがいい」という薦めもあって、明日一番に山に登ることにしました。

 
 お宿から雪靴を貸してもらい、目当ての地元温泉に向かう。ちなみにお宿の名前は『最上屋』、屋号を見てここしかないと思った

 夜、就寝前に先の本と歴史館から頂いた資料を元に慶長出羽合戦をおさらいすることにする。『慶長出羽合戦』とは『関ヶ原合戦』に連動して東北地方で起こった合戦である。相対したのは東軍側の最上家と西軍側の上杉家(※7)。

 ・

 ・

 まず、頂いた最上・上杉両軍の進軍図がこれ。(クリック推奨)

 

 ……うわぁ。

 この時点で最上領の石高は24万石、対して五大老にも列を連ねる上杉の石高は120万石。単純に石高だけではまるで勝負にならず、図を見れば分かるように、実際の動きも上杉の一方的な侵攻戦で最上側は防戦一方であったことがよくわかる。

 無論上杉軍の足止めを頼んだ家康もこのことは重々承知しており、最上家以外にも伊達・南部家を始めとした東北の諸勢力にも書状を当て、合力して上杉に当たることを期待したようだが……

 ・伊達家
  上杉領の白石城を電撃的に攻略するも、徳川軍の南下と上杉軍の反転を知り上杉軍とは即座に和睦、結果上杉軍の矛先は最上領のみとなる。後に義光の要請により援軍も送っているが、この時の心境、書状の言葉を借りれば『最上の村里みな焼けても苦しからず』だったようである。

 ・南部家ほか
  この時南部領内で一揆が起こり(扇動したのは義光の甥(※8))、当主利直は自領に引き返してしまう。他の諸勢力の各当主もこの機会に乗じ、なんやかんやと理由を付けて自領に引っ込んでしまった。この時、関所を封鎖し各当主の帰国を阻止した者も居たという。(結果的に、義光の命によりすべての関所は開通された)


 資料を元にこの合戦の経緯を時系列順に連ねようと思ったものの、資料の内容をそのまま引用しているものがあったので、詳細はそちらに譲ることにする。

 『「天地人」直江兼続やまがた情報局|慶長出羽合戦の経過』

 これとWikipediaの『慶長出羽合戦』

 を照らし合わせればおおよその経緯は分かるかと思う。
 以下、ここでは最上家の各将の働きを追うことにする。


 ・江口五兵衛光清(あききよ)
 畑谷城主。上杉軍侵攻に際し義光は「城を破棄して山形に合流せよ」との通知をするが、「日頃よりこの城を預かるはこのような時の為にて候」とこれを断り、息子小吉、甥忠作らと籠城。城に篭った兵の数は350とも500とも。城兵は上杉軍相手に奮戦するも、二日に渡る交戦の末、衆寡敵せず光清ら討死。城兵は一人として残らず玉砕されたと伝わる。また、この合戦中で戦場となった後落城したのはこの畑谷城ただひとつである。

 ・里見民部、草刈志摩守
 長谷堂城南方の上山城を守備。遊撃戦、夜襲を用いて寡兵ながらも上杉軍と一進一退の攻防を繰り広げ、敵将木村親盛を討ち取るなどの功を挙げる。合戦中、草刈志摩守は討死。

 ・楯岡満茂
 豊前守、最上家の仙北地方攻略の総大将となって功を為す。この合戦では上杉軍と通じて兵を起こした小野寺義道の行動を予期しこれと交戦。一千の兵を以て仙北の最上領地を守り通す。

 ・志村光安(あきやす)、鮭延(さけのべ)秀綱
 それぞれ伊豆守、越前守。志村光安は長谷堂城の城主、鮭延秀綱は援兵の将として長谷堂城に合流。共に最上家を代表する名将であり、長谷堂城の合戦にはこの他にも楯岡光直(義光の弟)、氏家光氏(氏家守棟の後継ぎ)小国大膳、川熊讃岐守などが合流し、総力戦の体であった。ここに攻め寄せた上杉軍の兵は約二万、対して長谷堂城の城兵の数は千三百余り。数の多寡は明らかだが、城には義光の命によって多数の鉄砲が持ち込まれていた。この鉄砲と城堀、そして志村光安の軍略と鮭延秀綱らの勇武に支えられ、長谷堂城は九月十五日の開戦(実はこの十五日の一両日で関ヶ原の勝敗はついている)から同月二十九日まで、関ヶ原の勝敗が両軍に届くまでの約半月間、上杉軍の兵を城内に入れることなく守り通した。この攻防戦の中、上杉家の将のうち剣術の達人・上泉泰綱(剣聖・上泉信綱の孫)ら名だたる足軽大将が数人討ち取られた。

 合戦後、志村光安は酒田亀ヶ崎三万石の城主に栄転、鮭延秀綱も真室一万一千五百石を与えられた。

 ・下吉忠(しも・よしただ)
 対馬守。上杉方の将で、大浦城の城番であった。その大浦城(最上領西北側)から最上領に侵攻、白岩、谷地城を落とし寒河江城にまで迫るが、そのさ中、長谷堂城方面では直江兼続の元に西軍敗北の報が届き上杉軍は即座に撤退。この時吉忠は最上領に取り残される形となり、最上軍に降伏。直後の庄内侵攻戦では先鋒として活躍、勝手知ったる大浦城の攻略などにも功を挙げ、後に大浦城代として二万石を拝領、最上家重臣となる。


 また、慶長出羽合戦での最大の激戦は上杉軍の撤退戦、最上側から見れば追撃戦の時であったという。この時最上義光は軍の先頭に立って猛追、かの兜に銃弾を浴びたのもこの時だったという。戦死者数は双方合わせて二千名(『寛政家譜』によれば戦死者は上杉方1580、最上方623)であった。この後、直江兼続は後の陸軍の教科書にも載るほどの鮮やかな撤退戦を行い領内に閉じこもるが、最上方では庄内の上杉領、仙北の小野寺領への侵攻戦が行われ、この状態は家康からの停戦命令が出る翌五月まで続いた。

 ・

 ・

 翌日、お宿に荷物を預け、雪靴を借りて蔵王の山頂を目指します。

 
 まっしろ

 
 ロープウェーに揺られ、雪景色の中を上がっていく

 
 だんだんと雪に埋もれた木々が見えてくる

 
 到着。気温、-10℃以下。風が痛い!

 
 山を滑っていくスキー客の一団を後ろから。こちらはスキーウェアでないので目立つ

 
 あまりに何もない白暗い世界にテンションが上がり、わざとすっ転んでみたり。写真は形ある物しか捉えられず、「何もない風景」が撮れないのが残念

 
 『蔵王地蔵尊』。本来は台座もあるのだが、完全に雪の中。ソリに載る賽銭箱がいい味出してる

 
 山頂にあるカフェから。この日の早朝は曇天で、なかなか日が差さなかった

 
 下りのロープウェーから

 
 この風景は当初の予定になかったので、余計に感慨深かった

 
 山を下ると、温泉郷では日光に雪が溶かされていた

 
 誰の作でしょう

 
 いい所でした

 ・

 ・

 その後、お宿と温泉街を後にして再び山形市内へ。目的のひとつは最上義光像の再撮影です。

 
 一日目は暗くて気付かなかったのか、途中の道で銅像を発見。幕末に家老職として奔走した水野元宣とのこと

 
 再びやって来た山形城、さて、今日はどんな按配でしょうか……

 ・

 ・

 
 おお!

 
 撮れる!

 
 映える!

 
 これは絶好!

 余りに嬉しかったのでいろんなアングルからパシャリ、パシャリとやってしまいました。この勇壮さはやはり晴天にこそ映えます。手前の雪囲いもこの季節ならではのもの、木々のてっぺんをうっすらと覆う雪冠の風情もよし。いやあ、来てよかったです。さて、これで晴れて帰路に……

 ……じゃなかった、目的地はもうひとつありました。それは山形駅からひとつ離れた北山形駅にあります。

 ・

 ・

 

 目的地はこちら、龍門寺。特に歴史的に重要な場所と言うほどのものではありません。私がここに足を運んだ理由はひとつ、ここが最上義守の菩提寺という他の事はありません。

 

 龍門寺境内、足跡や車輪の跡を見ると、誰も門を潜らない寺ということないようです。最上義守という人物、私もろくに知らなかったわけですが。

 

 

 本堂、掲げられていた紋は『十五枚笹』。しかしどんな形であれその名を借りるということは、元の人物に全く無知というわけには居られないわけで。

 

 掲額。それが結局、この場に足を運ばせた理由でしょう。他にこの名を取り上げる人が少ないとあらば、そのほうが尚面白いという気がします。

 
 本堂脇の供養塔には寺の縁起が刻まれていた。ちなみにこの写真の周りにある足跡は全部私のものです。足が冷たくて仕方ない……

 ともあれ、これで今回山形に来た目的は果たせました。あとは車内で寝こけながら帰路に着きます。


 

 おまけ、途中の米沢駅に鎮座していた大河ドラマの主役様。でかい。



※1:上杉謙信こと長尾景虎が父・長尾為景を討ったという説には未だお目にかかったことがない。

※2:「織田家の譜代衆」の誤りかと思われる。

※3:時の最上当主・義定が後継ぎを作らずに没したことが事の発端。義定の正室は当時の伊達家当主・稙宗の妹であり、この時正室と共にやって来た伊達家の家臣が後事の音頭を取ろうとした。最上家が伊達の傀儡と化してしまうと山形の地は伊達の脅威に晒されるわけで、この時ばかりは最上・天童・大江・高楡(たかゆ)などの諸勢力が一丸となって伊達に抵抗した。この時の伊達家当主・稙宗は政宗の曽祖父にあたり、かの『天文の大乱』の発端となった人である。また子供を二十一人も儲けていることでも有名。

※4:この長谷堂城は最上家にとって因縁の城であり、後の慶長出羽合戦の主舞台になることはもちろん、義定の代には伊達家との合戦で城主クラスの将を数名含む一千人という死者を出し敗退、落城している。この敗戦の和睦の条件として伊達家は義定と稙宗の妹との婚姻案を提案、そして次代当主・最上義守誕生へと繋がっていく。

※5:この言葉、核家族化が進む現在の『親族』の常識だと誤解を招きやすい。元々庄内・山形地方は斯波氏に与えられた土地であり、最上氏はこの斯波氏の分家のひとつであり、この地方の領主の殆どは斯波氏と縁続きである。この『親族』はそういう視線で見なければならず、また下克上の時勢であれば尚更である。
 また義光は主家筋に当たる大崎家には忠義を尽くし、秀吉の東北仕置の際にも所領を没収された大崎義隆の復領を嘆願するなどして最後まで存続に尽力していることを付け加えておく。(補足、嘆願の甲斐あって大崎義隆は十二万石の所領を安堵されるが、嘗ての領地に戻ってみれば旧家臣らによる一揆が起こっており、結局このせいで所領安堵は反故にされた。この一揆の黒幕は伊達の御当主と目される)

※6:長谷堂合戦の激戦中に直江兼続の迎撃に遭い、その時の銃弾の跡がある兜。最上義光像が被っている兜もこれが元になっている。

※7:上杉家は豊臣家に義理を立てる下地があるが、最上義光本人は豊臣政権、というか豊臣家そのものに少なからず禍根があったと思われる。そのひとつに、愛娘の駒姫を摂政関白こと豊臣秀次切腹に連座して失っていることが挙げられる。これは駒姫を秀次の側室として差し出してすぐのことであった。時に駒姫は側室最年少の十五歳、東北一の美姫とも噂された彼女の死は京の人々の同情を誘ったという。

※8:伊達政宗の生母・義姫は最上義光の妹に当たる。遡れば、最上義守と伊達政宗は祖父・孫の間柄に当たる。そういえば義守・義光と義姫・政宗の親子関係はどこか似たところがあるような。

 戻る