2008年12月13日

山陰山陽の旅〜5.月山富田城へ。

 登山前日、足立美術館から月山富田城の近場にある富田山荘というお宿に到着。

 
 全景。天守閣のあるお宿として、地元では有名・・・らしい

 
 屋根瓦に紋。これは広瀬町の町章で、合併により現在は消滅

 
 個人名で歓迎されていて驚きました(一番右)

 
 お宿のロビーに堂々と飾られていた山中鹿介幸盛図。月山登城を目的としてやってきた私にとってはこの上ない歓迎です。

 「月よ、願わくば我に七難八苦を与え給え」で有名な山中鹿介幸盛は地元でも別格の様子。毛利の攻略によって衰退の一途を辿る尼子家をよく支え、月山落城後も毛利に抗うべく織田を頼り主家・尼子家の再興を最後まで諦めませんでしたが、時勢味方せず毛利方の虜に。その不堯不屈の志を恐れた吉川元春(毛利元就次男)の手により、川の渡しにて虜のまま騙し討ちに遭い落命。文字通り七難八苦の生涯でした。その誠実な人柄と数多くの武勇伝から死後も人気は根強く、前述の月に祈ったという逸話は戦前の教科書にも載りました。真田幸村などと並び、永遠の若武者というイメージが強いです。(※1)

 ロビーには他にもまんが「山中鹿介」などが置いてありました。少年鹿介に助けられた狐がくの一となり、元服した鹿介を影から支えるという構成がまんがらしいです。

 
 富田山荘の温泉より月山を望む。目の前の台形をした山がそれで、宿そのものが山の中腹にあるので低めに見える

 
 翌朝、許可を貰って天守まで登る。雲行きがかなり怪しい

 
 おや、ここの屋根瓦にも「木槌」が・・・?

 翌日はお宿の定休日だったのですが、支配人さんのご好意により月山の麓まで送ってもらいました。その少し前、ロビーに居た地元の方と少しお話をしました。


 男性「しかし自分らはいい時代になったなあ。俺は18の時にオヤジが死んで、その後は仕事で必死だったからなあ。今でこそ息子が手伝ってくれとるが、自分のように旅行に行くなんて暇なかったもんでね」

 私「お仕事は何を?」

 男性「ああ、電気屋をね。今日は役所から人が来て、この宿が地デジを受信で来てるかチェックに来るんだわ。この地区はまだ地デジが受信出来ないから、地デジに以降する日までに地区中に配線を敷かんといかん。おかげで今も忙しいわ」

 男性「・・しかし、あんな何も無い山によく来たな。山と言えば俺は先週三徳山に登って来たな、登ったことあるか? 途中鎖を使わないと登れないような難所があるが、『投げ入れ地蔵』という名所がある。一度行ってみるといいぞ」

 私「離れたところに賽銭を投げ入れるわけですか?」

 男性「違う違う、崖の絶壁にお堂が嵌め込んであるんだわ。どうやって作ったのかはわからんけど、崖に堂を投げ入れて作ったっていう伝説がある」


 地元の方との話は為になります。

 ・月山富山城

 中国地方の覇権を懸け、大内・毛利の猛攻を幾度となく耐え切った尼子が堅城。しかし大内を滅ぼし日の出の勢いを得た毛利の一年半にわたる包囲によりとうとう落城。以降は毛利・吉川氏が治め、関ヶ原後の国替えを経て堀尾吉晴が預かるも一国一城令により同氏は松江城に本拠を移し、その役目を終えることとなる。

 
 月山麓、市立歴史資料館の近くにある富山城の模型。中腹から本丸にかけて一段と急になっている場所が「七曲の道」と呼ばれる難所である

 小雨の中、お宿の管理人さんの口利きにより会館前の歴史資料館さんに荷物を預けて登山開始。予報では、天候はじきによくなるそうですが・・・

 
 堀尾吉晴墓、遺言によりここ月山に埋葬さる。秀吉直臣で天下統一事業に大きく貢献し、温厚篤実な人柄から「仏の茂助」と呼ばれた(茂助は仮名)。最近ではNHK大河「功名が辻」で生瀬勝久氏が演じた役といえば覚えがいいだろうか

 
 松江市内などで見られる堀尾家定紋は「抱き茗荷」であるが、墓に刻まれているのは「分銅」「平六つ目」である。これも遺言による刻印だろう。「寛政重修諸家譜」に拠れば高階(たかしな)氏支流堀尾氏の紋は「分銅」だそうである。恐らく、大名となった吉晴が定紋を「抱き茗荷」に改めたのだろう。「茗荷」は「冥加」に通じ、より武家らしい紋と言えるし、仏と呼ばれた吉晴には実にしっくりといく。「平六つ目」の由来は残念ながらわからなかったが、分銅と同じく由緒があるのだろう(※2)

 
 参考:抱き茗荷紋

 
 堀尾吉晴墓の隣りにひっそりと建つ山中幸盛供養塔、建立者は堀尾吉晴夫人だそうである。余談ではあるがこの建立物に近づいた途端雨脚が強くなり、一旦引き返して資料館さんから傘を借りた。涙雨だろうか

 
 
 
 大手門。左右を石垣に囲まれており、間口が実に広い。尼子家の在りし日の隆盛が偲ばれる

 
 
 山中御殿。大手門を上がった所にあり、とにかく広い。政治経済の心臓部として機能していたのは間違いない

 
 この上が「七曲の道」である

 
 
 
 
 難所「七曲」、蛇のように曲がりくねった坂が上まで続く。しかし、これだけ急でありながらすべて石畳敷きである。戦国山城でありながらこれだけ整備されているのは、長きに渡り拠点として機能していた証拠であろう。また、それまで松林があるところから竹林に入れ変わっていった(三枚目参照)

 
 七曲途中にあった「山吹井戸」。とても小さいが、今尚枯れていないという

 
 
 
 「三の丸」、当時の石垣は今で健在である。大きいだけではなく、かなり広い。

 日が照ってきました。

 
 
 
 三の丸の石垣を上がった所にある「二の丸」、これまた広い。山中御殿のように満遍なく広いのではなく、細長い造りである

 
 
 二の丸からの眺め。現在の標高は約200m

 
 二の丸から本丸を見る。両所の標高はほぼ同じ

 
 本丸に行くには、この二の丸の脇を通らなければならない。守りに堅い造りである

 
 
 
 本丸、別名「甲(つめ)の丸」。台形の山に築かれた城なので当然と言えば当然なのだが、とにかく奥行きがある。先日登ったばかりの吉田郡山城の本丸に比すると信じられない広さだ

 
 本丸に建つ山中鹿介幸盛記念碑。碑文には「天正六年七月十七日卒」とある

 
 
 本丸からの眺め。曇ったり晴れたりで天候が安定しません

 
 本丸最奥に控える勝日高守神社。祭神の大国主神は尼子の氏神なそうな

 
 瓦は紋無し。ちょっと寂しい

 
 帰路、本丸から見た二の丸の図

 
 
 
 「花の壇」に「奥書院平」。山中御殿から下ったところにあります。月山富田城はどこの曲輪も広くて見晴らしがいいのが特徴ですね。ところが、ここに来て回復してきたと思った天候が一転し、雲行きが怪しくなってきました。小雨が来たので花の壇奥にある復元侍所(二枚目)でやり過ごしていたら、向こうの山から雷鳴が轟いてくる始末。あわわ・・・

 どうも待っていても天候が良くなる兆しが無いので、進む(下りる)ことにしました。本降りになる前に下山したいところなんですが、この先には月山最大の見所が待っているわけで・・・

 
 !! 見えた!

 
 
 
 
 月山と言えばこれ、山中鹿介幸盛銅像です。戦国武将の銅像は数多くありますが、槍を携えたものはそこまで多くありません(※3)。しかし対面した時にはかなりの本降りで、写真がすべてメタリックブラック色になってしまいました。この銅像は悲願成就を月に誓った場面を再現しているわけですが、この時ばかりは雨乞いをしているようにしか見えませんでした。先の供養塔のときも雨が降り出しましたし、何やら訴えかけられているような気分です。寒い。

 つゆけぶる
  かんなんのかけら
   われもえり(字余り)


 山の天気は変わり易く、下山を終えると雨がやんできました。案内図によれば、近場にもうひとつ銅像があるというのでそちらに向かいます。

 
 歩道にもしっかり尼子の「平四つ目」紋が。そしてこの先には・・・

 
 
 
 
 大当たり! 戦国時代初期に山陰山陽十一カ国を有し、尼子氏全盛を築いた英傑・尼子経久の堂々たる勇姿。渋い、たまらん! 知名度が無いのが悔やまれるくらいの優良銅像です。月山に寄られる場合は是非合わせてご観光をば。特に真正面から煽りで見上げると素敵な躍動感が拝めます。余りにも鹿助尽くしで主家尼子の見所に乏しかったので、これは嬉しいところ。

 
 
 麓の歴史資料館から、山中幸盛にまつわる兜の写真と肖像画。百名城スタンプはここにあります。なお、交通機関を利用してここに来る場合は最寄り駅の安来(やすぎ)駅を利用することになりますが、バスの便が非常に少ないのでご注意を。私は帰りのバスを一時間以上待ちました。

 
 最後に面白いものをひとつ。上のものは月山麓の町の屋根瓦を撮ったものです。この家屋だけかと思いきや、帰りの伯備線(主に島根県)の車窓から見える屋根にはほぼこの「大黒さん」の素焼きくっついておりました。因みに、先の富田山荘や吉田郡山城付近(該当の日記参照)及び芸備線(主に広島県)の車窓から見た民家の屋根瓦にあったのは「木槌」です。ネットで調べてみたところ、どうも地元の風習のようですが伝播や由来などはまるでわかりません。しかしよく考えたら「大黒さん」と「木槌」ってセットであるものでは・・・?(※4)



※1:とはいえ、定説によれば幸盛は享年34歳なので若武者のイメージは間違っていない。対して、大阪夏の陣での幸村の年齢は49歳である

※2:今後の宿題がまたひとつ

※3:個人的に、槍を携えた銅像の最高峰は福岡市中央区西公園にあるという「母里太兵衛」像である。太兵衛と言えば黒田節、故に携えている槍は正三位『日本号』なのである。見たい。たまらん・・・後は名古屋市中川区荒子駅前の「前田利家」に広島市東区才蔵寺内の「可児才蔵」、高知県若宮神社参道にある「長宗我部元親」、それに・・・(キリねえよ)

※4:とはいえ、写真の民家と富田山荘は同じ町内である。これも宿題か・・・? 探偵ナイトスクープあたりで調べてくれないかしら


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