2008年11月28日

山陰山陽の旅〜2.吉田郡山城へ。

 吉田郡山城は日本百名城に選出されている史跡で安芸毛利家の本拠です。その知名度から言えば地元の観光設備もかなり整っているのかと思いきや・・・コレが、全くと言っていほどそういう事業には取り組んでいません。その辺は事前に聞いてはいたのですが、観光資源としてここまで利用されていないのは勿体無いんじゃないかという程でした。

 そんなものですから地元の吉田町にも宿がふたつくらいしかありません。前日、夕食の時間から遅れて到着した私を迎えてくれたのは「いろは」というお宿です。老夫婦おふたりだけで経営されている所で、とはいえ随分と丁寧に応対してくれました。吉田郡山城の話は事前にしておき、地元での資料は何かありませんかとお願いしておいたところ、城のマップを用意してくれました。その折にご主人と話をしたときのことです。


 私「今日は宮島で弥山という山に登ってきたんですが、まさかあんな高い山があるとは知りませんで・・・」

 主「ああ、宮島に行ってらっしゃいましたか。あそこはねえ・・・宮島に行くと車道用のトンネルが幾つかあるでしょう。そのうちのひとつはわたしが掘ったんですよ」

 私「え・・・おひとりでですか!?」

 主「いえいえ、人夫はもちろん雇いましたよ。現場の指揮を下のが私ひとりということでね・・・二十四〜五くらいのときで入社してすぐでしたねえ。広島の街がみんななくなってしまったから、指揮を取れる人が居なくて、私のような者でも狩り出されたんですよ」

 私「そんなお若い時にですか!? 私、今二十六ですけれど・・・そういえば、投下の日はどちらに?」

 主「私の家は広島市内で、当時はまだ学生でしてね・・・その日たまたまドイツ語の試験があって、いつもより早く家を出たんですよ、学校は山の上にありまして。それで間一髪、免れたという感じですな(※1)」

 私「そうだったんですか・・・」

 主「まあそんなわけで・・・孫とかにおじいちゃんは何をやっていたのかと聞かれるんですが、そこで唯一、胸を張って言えるのがそのトンネル事業ですな。今でも歴として使われておりますからね」

 私「地図に残る仕事というヤツですね」

 主「そういうことですな(笑)」

 ・・・人には歴史があります。


 さて翌日になってこの吉田郡山城を訪ねるんですが、スケジュールの都合でタイムリミットは昼間でとなります。昼までに戻って芸備線→木次線に連絡しないと目的地の宍道まで辿り着けないという・・・木次線は芸備線以上に本数が少なく、一本逃すとそこで終了・・・昨日に続いてまた時間との戦いです。

 なので翌日は朝7時に起き、朝食を頂いて宿を出ました。荷物は預けてあるのでチェックアウトの10時までに帰らないといけませんが、そこは「一応時間を設けさせて頂いてますが、何分田舎の宿なので口うるさいことは言いませんよ」と言って頂きました。感謝です。筋肉痛の具合も心配でしたが、幸い足首に少し疲れが残っている程度で済みました。

 
 
 城までの道のりで見かけたご当地看板。定番とはいえ、元就の里はないだろ・・・

 ・吉田郡山城

 
 宿で頂いたガイドマップ

 
 07:40、霧がかってます

 元就の時代に最盛期を迎え、江戸時代の一国一城制により役目を終えた場所。防衛拠点としての機能は、多勢の尼子氏を迎え撃って撃退した「吉田郡山城篭城戦」が名高い。以降は政治・経済拠点として機能し、戦場となることはなかった。

 ・・・それにしても、ここまで霧が立ち込めているのは計算外でした。標高もそこまで高くないため、朝早くでも問題ないと踏んでいたのですが・・・

 
 07:42、登山道入り口にある清神社。屋根が濡れているのは雨のせいではありません

 
 
 フラッシュを炊くとこの通り。これはひとつ前の写真にも写りこんでいる杉の一本のうち台風で倒木したものを奉ったもの

 
 社紋は「五つ木瓜(もっこう)」

 
 07:49、立て札はなかなか小洒落ているのだが・・・

 
 
 07:51、郡山公園。こちらは結構手入れが行き届いており、往年の大河ドラマ「毛利元就」に因んだ記念碑などもあった。早朝という事情もあり、道にも蜘蛛の巣が張っている

 
 07:54、郡山大師堂

 
 社紋は「団扇笹」、しかし従来のデザインとは上下逆さになっており、珍しい

 
 07:56、道脇に八十八の地蔵が立ち並ぶ。数えながら歩いてみた所、一体多かった・・・あれ?

 
 08:00、展望台からの眺め・・・って、何も見えねえ!!

 
 08:01、階段を抜けていよいよ山道へ。楽勝かと思いきや・・・

 
 08:09、道がどんどん狭くなっていく・・・!?

 とはいえ、この程度の狭さならどうってことはない。ただどうにも、道の雲行きが怪しく・・・自分は看板の案内通り、脇道にそれて「旧本城跡」を目指しているはずなのだが、だんだんと山道なのかそうでないのかの区別がつかなくなっていく。とはいえ仮にも史跡、何れはどこかに着くだろうと・・・思っていた矢先のこと。

 

 うおーい、これどう見ても道が無いやないか!? 倒木が道を塞いでいるにせよ、コケとか出ててかなり年季が入っているっぽいんですが・・・!?

 まあいい、このくらいだったら山道には付き物、この程度だったら跨げば通れないことはな・・・おうい、この先はどう見ても手を使わないと上がれないじゃあないですか・・・この先にいったい何が・・・

 
 08:13

 ……It's dead end.

 写真の限りだと道があるように見えますが、手前の木はフレームの外にも大量に生い茂っており、切り倒さないと先に進めないレベル。


 ・・・畜生、引き返すしかないじゃんっ!!


 
 08:16、あんたにゃあ見事に騙されたぜ・・・

 ・

 ・・・気を取り直して、本丸への道を上がる。途中、分岐点に「尾崎丸跡」の立て札に差し掛かったので、ややいやな予感を覚えつつもそちらのほうへと進む。

 すると・・・

 


 いきなりかよ!!

 まあ、これくらい越えられなくはないけどさ・・・

 


 うおおぉーいっ!?


 なんだ、この綺麗に切り倒された木の道は!? 一番上で横になって引っかかってる一本なんて芸術的な気さえするぜ!? そりゃあね、跨げば簡単に通れますよ!? でもね、この先本当に道が続いているっていう保証はあるんでしょうな!

 ・・・

 
 08:24

 ヤバイ、絶対ヤバイよここ・・・なのになんで俺は進もうとしてるんだ・・・道がどこかに繋がっているという気すらしない、だってもう道「らしき」道を選んで歩いている始末だからね・・・何も無いところをひとり黙々と歩くこの孤独とか、もう・・・

 そのとき、ふと遠くのほうを何かが素早く横切っていく。いきなりのことで写真を構える暇なんてなかったが・・・それは間違いなく鹿だった。

 そして、耳を済ましてみると・・・

 (音があるのは最初のほうだけです)

 ・・・昨日聴いたばかりなので間違いない、これも鹿の啼き声である。

 ・・・

 嬉しいけど・・・ここって本当に史跡だよね?

 とにかく、落ち着ける場所が無いのでどこかに足場を求めなければならない。上を見上げるとちょっとした平地があるようなので、木を掻い潜りつつなんとか上がってみれば。

 
 08:30

 ドコだよ、ココ!? 俺は原生林に来たんじゃないんだぞ!?

 ・・・霧の効果も相俟って雰囲気充分です。私は途方に暮れましたけど。

 とはいえ、なんとか山道に戻らないと時間が過ぎるばかり。当たりをつけて別方向に山を下っていったところ・・・

 
 文明の痕跡発見! 他にも山道に戻れそうな手がかりは無いかと見回してみたら・・・

 
 土嚢の上を平面に切り裂いているものは・・・まさしく道!

 そんなわけようやく山道に復帰したはいいものの、ここがどこなのかよくわからない。取りこぼしがあるといけないので敢えて道を戻ってみたところ。

 

 ・・・テメエ・・・

 
 
 08:34、尾崎丸跡。本丸への道から横にせり出した独立性の高い曲輪で、比較的平らな場所だった。解説板以外、何も無い場所ではあるが

 どうやら、最初の尾崎丸跡への案内板はフェイクと取ったほうがいい模様。地図を見ると、この先また分岐があって、今度は満願寺跡へと通じているはずだが・・・

 
 08:38、今度は信じていいのかな、カナ!? 僕、君の三矢の訓(おしえ)にもう二度も騙されているんですがっ!

 
 
 
 08:40、満願寺跡。一面が湿地帯でシダ系の植物が目立つ。ちゃんとした場所なのにココまで原生林的な雰囲気があるとは・・・

 
 
 満願寺跡の先にある妙寿寺跡で見つけたもの。切り倒された跡の木の根が掘り起こされ、そこから植物が生まれている。生物界における撹拌(かくはん)である

 
 08:52、道と案内板が目的を同じにするなら怖いものはない。登れ、登れ

 
 08:56、勢溜(せだまり)の壇跡。曲輪が階段状に敷かれ、脇に通る道を真上から迎え撃つことを可能としている、堅牢な防衛拠点である。写真中央上あたりに切り立った1.5mくらいの段差があるのだが、わかるだろうか

 
 一段降りた所から上の壇を望んだところ。向こうに説明版の屋根が見える

 
 更に一段降りたところから。肉眼では説明版の屋根が少しだけ見えていたが、霧で写真では捉えきれていない

 
 三段目から脇の山道を見下ろした所。この曲輪には上から落とすための木や石が積まれていたに違いない

 
 脇の山道側から上の写真の場所を望む。下から攻め寄せるには厄介な場所だっただろう

 
 09:04、更に登って、御蔵屋敷跡で石垣を見つける。マップにも石垣らしきものは描かれている

 
 09:06、二の丸付近にあった紅葉。ようやく、霧がいい雰囲気を出してきた

 そしてようやく・・・

 
 09:08

 本丸跡。面積は狭く、また周り気に木々が生い茂っていて薄暗い。しかし周りを見回しているうち、ふと石碑にうっすらと日が差していた。そこで、上を見上げると・・・

 

 ・・・!?

 なんともいえない清涼感に包まれる。日の光は強く大きいのだが、しかしまったく音を立てることなく、静かに光っているのだ。霧の中から差しているので、日の前にわざと物を配置するように視点を変えると、歪みなく後光が差す。そして霧のおかげで、日輪を直に見ることができる。丸い。明るい。絶え間ない。

 
 ましてや、ここは吉田郡山城である。城主が日輪を信仰をしていた場所である。この季節、このような朝を毎日迎えていたとすれば、崇めるようになるのは自然の成り行きであろう。

 
 ベストショット。ふと目に入った光景に、シャッターを切るほうも興奮でひとしきりだった

 するとふと、私が下る予定のの道から人が登ってきました。声をかけると、日本百名城めぐりを趣味にしている人だそうです。達成率を訪ねてみると、既に六十は制覇されているとか。私は本丸跡で写真を撮ってもらい、その人はさっと引き上げて行きました。私と同じように、時間の都合があるんでしょう。

 
 
 
 本丸を囲む用に存在する曲輪たち。上から釣井の壇、姫の丸壇、釜屋の壇。それぞれの名前が具体的な機能を物語っている

 
 09:44、少し離れた羽子の丸跡への道。途中道がなくなりかけているような場所もあったが、概ね道にはなっていた

 
 
 羽子の丸跡。北からの備えのために築かれた要所だと思われる。霧が晴れてきたせいか、今までと少し雰囲気が違う

 
 
 羽子の丸跡から本丸に戻る途中。霧と日光の具合がすごい。光の間を通ると霧の水滴が浮かんで見えていた

 
 信仰の原始を見る

 
 
 10:04、西側の下山道。こちらは道幅も広く、ご丁寧にビニールテープまで張り巡らされているんですが・・・この東側との違いは何??

 
 完全に晴れてきました

 
 ちょっと・・・この東西での扱いの違いは何よ? こちとら「気をつけて」の一言すらなかったじゃないのさ!

 
 10:15、毛利一族の墓所。元就の先祖、兄興元、甥幸松丸、婿嫁(長男隆元夫人)の墓などが並ぶ。一番右、先祖の合墓は墓石ではなく盛り土

 
 階段の向こうに覗く有名な石碑・・・

 
 

 「百万一心」の碑。

 『この文字は分解すると『一日一力一心』ともなり、意味するところは『日を一にして、力を一にし、心を一にする』である。
 平たく言えば、みんなの心身や呼吸を一つにしてがんばろう……ということだ。』
 (戦極姫シナリオ中より抜粋)

 郡山城拡大の折、人柱の代わりとして元就が建てさせたものだと伝わりますが、残念ながらこれはその現物ではありません。しかし箭戒とは違い、同じく合力を説いたこちらの話の史実性は高いようです。

 
 
 10:17、毛利元就墓所。供養塔が数多く見受けられる

 
 10:28、毛利隆元墓所。次男元春、三男隆景らとは違い、父の傍らに寄り添う

 
 10:34

 東側の登山道の麓にあるモニュメント。こちら側には駐車場もあり、一般的には東側から登るように設計されているようです。悪いことは言いません、これから吉田郡山城に行かれる方は東側から登りましょう。また遺構に興味のある人以外は下りも東を使ったほうがいいでしょうね。

 ・・・で、なんで登山開始から三時間も経ってるのさ。昨日の弥山と同じくらいの時間を費やしてるんですけど(体力的な消費は昨日のほうが遥かに上)。

 宿の方に遅れますと電話をしたところ、「折角いらっしゃったのでゆっくり見物なさって下さい」とのお返事が。本当にもう・・・ありがとうございます・・・

 
 
 
 麓にある元就像。造りはやや粗いですが具足装備の元就像は珍しく、ちゃんと「どっしりと」構えています。

 
 
 元就像近くにある三矢の訓碑。三矢ですが、こちらでの読みは「みつや」で統一されていました。漢字変換でも「みつや」でちゃんと出てきます。

 

 吉田町歴史民族資料館。百名城スタンプはここにあります。木簡や木像などの展示品にX線投射画像を並べ、墨文字や中の構造を併せて展示しているところに工夫を感じました。吉田郡山城からの出土品は食器が主でしたが、和製に混じり大陸製のものも多かったです。元就・輝元時代の隆盛を物語るものでしょう。時間の都合で手早く回らなければならなかったのが残念。

 
 11:06、帰りがけに撮った清神社。よく見ると隣の土蔵に紋が刻まれている。後で調べたところ、「折敷に縮み三文字」だそうな

 
 この地区の家の屋根構えの殆どに付いている「木槌」。家紋にしては分布が広すぎる。なんだろうか

 ・・・結局、お宿に着いたのは11:15頃。そこから手早く荷物を纏め、呼んでもらったタクシーに乗って吉田口駅を目指しました。とにかく、間に合って良かったです。

 
 お世話になりました

 それにしても恐るべしは吉田郡山城・・・登山者に対してまで堅牢でありました。


 つゆがかる
  にちりんのみやま
     よしだちょう(字余り)


 次回に続きますよ。



※1:わざわざ書くまでもないが、広島の原爆投下時間は午前八時十五分のことである。またドイツ語というのが当時の世相をよく表わしているだろう

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