基本的にmixiに上げた日記を再録したものばかりです。
文の常体と敬体が定まっていませんが、そこは愛嬌で。

 ・山形・蔵王の旅。

 ・山陰山陽の旅〜5.月山富田城へ。

 ・山陰山陽の旅〜2.吉田郡山城へ。

 ・山陰山陽の旅〜1.宮島へ。

 ・春日山城へ〜その2。

 ・春日山城へ〜その1。

 ・Song探して。

 ・SYOGUN WARRIORS。

 ・意外な血筋。

 ・屈原を讃う。

 ・チェストー!


2008年11月05日

春日山城へ〜その2。

 後編は敬体でお送りします。

 やや天気がぐずっていましたが、とにかく二日目、今日は春日山城でまだ巡っていない所や周辺の施設を中心に攻めようかと思います。

 その前にひとまず、朝食前に直江津の宿を出て付近を散策していたらなかなか面白いものを発見。

 
 
 家康の勘当息子・忠輝奉納と伝わる神馬。彼が父親から受け継いだ最も大きなものは長寿ではなかろうか

 
 
 兜池。九郎判官縁の場所らしい。非常に狭い場所だったが、打ち捨てられているという風もなく綺麗だった

 ・林泉寺

 
 
 
 山門、「春日山」「第一義」の額字は謙信筆。現在のは複製品で、オリジナルは宝物殿にあり

 
 本堂。中では謙信の木像が鎮座している

 言わずと知れた虎千代様(上杉謙信)の養育先。入場料が必要とあるだけあってしっかりと整備されていました(冬場は積雪のため整備が大変らしい)。社殿を眺めていると惣門から団体さんの到着が見え、それに合わせて住職さんが宝物館の裏から入っていくのが見えたので「しめた」とばかりにおじいちゃんおばあちゃんの群れに混ざって宝物の説明に預かりました。

 撮影は不可だったので具体的な姿形は出せないものの、以下のようなものにお目にかかりました。

 ・上杉晴景(※1)筆の掛け軸
 ・謙信生前に描かれたという肖像画のオリジナル二枚(※2)
 ・戦中胸掛観音像
 ・刀八毘沙門天(とばつびしゃもんてん)旗、広げると7mに渡るとのこと
 ・日の丸の御旗
 ・懸り乱れ龍旗
 ・謙信直筆山門額「春日山」「第一義」
 ・上杉謙信直筆の年初挨拶状
 ・伝謙信着用、甲冑二点
 ・榊原康正肖像画
 ・謙信に扮したGacketのポスター

 後面白かったのは謙信工夫と伝わる陣笠で、これは笠の中心に辛抱を通して回転するようになっており、矢が当たると笠が回転して衝撃を緩和するというものらしいです……この工夫は素晴らしい!

 最後にしれっと榊原家の宝物品があるのは、江戸に入って榊原氏が越後高田に入封されたことがその縁。

 ここの住職さんは話慣れているらしく、展示されている品の一つ一つを詳しく説明してくれる。案内も行のうちに含まれているんでしょう。

 その後は本道横の石段を登って上杉・堀・松平各氏の墓所詣。山地にあるからか空気が澄んでいて、清涼感のある墓所でした。


 
 写真の奥が墓所への道。石段の朽ち具合などが程ほどで実にいい

 それにしても、本堂の上に掲げられている家紋って……

 
 左から
 ・榊原源氏車(榊原氏)
 ・向う梅(堀氏)
 ・九曜巴(長尾氏)
 ・上杉笹(上杉氏)
 ・三つ葉葵(松平氏)

 ……どんなブルジョワな神社だ、ここは!!(※3)

 余談ですが、謙信に薫陶を授けたという林泉寺和尚・天室光育を越後の地に招いたのはあの柿崎弥次郎景家(※4)なんだそうです。海音寺潮五郎の『天と地と』以来猪突猛進のイメージが強い彼ですが、この話を聞く限り、一般的に言われている評価よりも分別があったのかもしれません。北条氏康との人質交換の際も上杉側が送ったのは景家の子であるし、政治に全く暗かったというわけではないはず。


 ・春日山城(残りルート)

 林泉寺から山道を登ってもう一度春日山城に上がりました。とはいえあと行っていないのは甘粕・柿崎曲輪(屋敷跡)くらいなので今日は頂上までは昇りません……地味に足首が痛いです。途中の謙信公像前の休憩所で『謙信ラーメン』なるものを注文してみましたが、別段謙信という感じはせず。残念。

 
 
 
 
 共に上杉旗下の猛将である柿崎と甘粕の屋敷跡。殊に柿崎曲輪は景勝屋敷跡に匹敵するほど広かった

 そして、当時の道を復旧したという大手道を経て番所を下り、いよいよ春日山城を後にしました。

 
 大手道。忘れがちであるが、第一次上田城の戦いに前後して、景勝に服属した真田昌幸より子の真田源次郎(幸村)が人質としてこの城に赴いている。彼もこの道を通ったのかも

 
 
 番所。冬〜春先は片栗の木が咲き乱れるそうですが、まだその時期には早いようです。時期が合えばさぞかし綺麗な雪景色が見れたことでしょう


 その後は付近の博物館で来年の大河ドラマ『天地人』に合わせた展示物などを見ていたんですが……その奥によくあるビデオコーナーでは今年の謙信公祭りの模様が上映されていました。普通だったら謙信役の役者さんが現れれば周りから拍手や『おぉ〜』という喚声が上がる所ですが、Gacketが現れた途端、周りから上がるのは『きゃーー!!』という黄色い声。こいつは一味違うぜ。

 ……それにしても、Gacket演じる謙信はかなり様になっていました。愛刀片手に白馬を御しながらお馴染みの『運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり〜』の口上をはじめ、更新中のファンサービスも忘れて居ないところはさすがと言うべきか。ただ、夜の部で暗闇に映えるGacketの顔はちと怖かったです。(笑)

 今年の謙信役はまだ決まっていないそう(※5)ですが、Gacket本人は『まだいつでも呼んで欲しい』とのことで。折角イケメンを適所に充てて盛況を得たわけですから、この勢いを失わないで続けていって欲しいものですね。


 ……さて、春日山城のアクセスの最寄駅は春日山駅なのですが、この直江津駅⇔春日山駅の一駅の連絡がかなり悪いです。この日も便の関係で結局行き、帰りとも直江津駅⇔春日山駅間を歩いて行き来しました。直江津駅まではスムーズにいける分、これは勿体無い所……大河ドラマ効果で観光に訪れた人々が困らなければいいんですけれど。

 結局、直江津まで戻った所で昨日のイベントに参加されていたスタッフさんのひとりが経営している居酒屋で夕食を頂き(地酒が美味しかったです)、ムーンライトえちごに連絡して翌日帰宅しました。


 天候には余り恵まれませんでしたが特に寒いということはなく、地元の方と接する機会も得られて楽しかったです。地元の方もみな明るく、実直な活気に溢れており、そんな空気の中に混ぜて貰えたのは幸運でした。イベント主催の方が自費出版したという春日山の地の郷土研究本も譲って貰いましたので、ゆっくりと嗜むことにします。



※1:上杉謙信父の長尾為景の第一子で謙信の兄。為景生前に家督を譲られたものの越後揚北衆を抑えられるほどの器量はなかった。後、家臣団に強要される形で謙信に家督を譲って隠居。

※2:厳密には、うち一枚(晩年の肖像画)は「写し」であるものの、元絵が消失したため「元絵に替わるもの」という扱いを受けている。

※3:補足すると三つ葉葵、梅はそれほど珍しくないが九曜巴・上杉笹・榊原源氏車のレアリティは高い。これは、それぞれの代表家以外の氏姓がこれらの家紋を用いることがまずないため。

※4:直江実綱と並ぶ上杉家臣筆頭格。主に武名で名を馳せるも、反面主君には『分別さえあれば彼に並ぶ者は居ないのだが』と評されている。但し私個人的に、謙信の言う『分別』には下克上の世とは折り合い難い倫理も備わっている可能性があると考える。

※5:Gacketも候補の一角だろうが、対抗に『天地人』で謙信役をやる阿部寛が居る。決定によって祭りの客層は変わりそうだが、どちらも捨て難い。

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2008年10月28日

春日山城へ〜その1。

 にいがた狼煙プロジェクト

 越後から帰って参りました。二日とも生憎の曇天でしたが、収穫もあって個人的には満足です。

・一日目

 
 入り口でのお出迎え

 小雨の中、春日山駅から歩いて春日山の山頂へ。事前に現地の方が主催するイベントへの参加を打診してあり、待ち合わせ間に合わせるように歩をぐいぐいと進めて本丸へと一直線。当然、山城なので結構な勾配がある。以前稲葉山城を登った時ほどにきつくはなかったものの、山頂に至るルートが複数種あるあたり、巨大な全容を実感するには充分だった。


 
 知名度抜群の城主様。この銅像は石垣の上に立っているんですが、「この石垣は当時無かったものだから取り壊したほうがいい」とのお達しが来てるんだとか

 山頂に登ると、既に西と南から狼煙が上がっているのが見える。しかし写真に撮るには光量が足りず、どうしても不鮮明に見えてしまうのが難点。ここ春日山城は最後に狼煙を上げるそうなので、それまでイベントスタッフの方たちと会話。主催の方は今回の狼煙のイベントの総合的な仕掛け人であり、上越で毎年行われている謙信公祭り(※1)ではもう20年前からここでイベント開始の狼煙を上げているそう。春日山城のみならず脚を用いて長年上越史を研究されている方で、長尾〜上杉氏に関してもかなりの所詳しく、大いに話のし甲斐があった(※2)。こういう人との出会いを求めてここに来たので、早くの目的の半分は達せられたような気分に。


 
 曇天の中の狼煙。こうやって見るとしっかりと撮れている

 
 狼煙に使われる薪。国定史跡のため、なかなか伐採をさせてもらえず大変なんだとか

 そうこうしている間に地元の子供たちや年配の観光客が続々と登頂し、あっという間に本丸は賑やかに。それから子供たちの代表に松明の火を投げ入れてもらい、狼煙の始まり始まり。その様子を延々30分にわたって録画していたわけだが、途中火の粉が鎖骨ら辺にくっついて軽い火傷。幸い日本海からの北風が吹いていたので麓からはよく見える形に煙が上がったことでしょう。煽られる煙の下から点を仰ぐと、曇天の中から顔を覗かせていた日輪が煙の中をちらつくように揺らめき、なかなかの趣があった。


 
 子供たちに説明をする主催者の永見さん

 
 狼煙後、山頂からの風景


 狼煙がひと段落すると、イベントスタッフと子供たちの集団に紛れて本丸から大井戸・景勝屋敷・毘沙門堂・直江屋敷などの遺構を下って春日山神社へと到着。

 
 ぞろぞろと

 
 毘沙門堂。「戦極姫」の劇中でももちろん書いてますが……復元とはいえ、こんなに小さかったのか……

 
 春日山神社。軍神の社の題字を同じく軍神が書いている

 子供たちはそこで別れ、私とイベントスタッフらは共に「権現堂」を見に行くことに。

 権現堂、と言われても手元のマップにそんな場所は無し。「?」と思って例の主催の方の後をくっついて行くと、南の丸あたりから明らかに観光道とは思えない山道に突入。

 
 狭き道。写真はコンディションが最もいい場所です

 慣れない人から見ればケモノ道にしか見えないような細道をぐんぐん進むと、前日の雨も相俟ってか土の上が滑りやすくなっており、うっかりすると盛り上がっている木の根に取られそうになる中を気をつけながら道を進むこと20分、少し開けた場所に出てみると……


 
 そこにはぽつんと、朽ち果てた廟がひとつ。


 「これ、ここですよ。謙信が出陣前に参拝していたという権現堂は、実はここのことなんです。ここから、今の毘沙門堂の場所に本尊を移したんですね」

 「はぁ、なるほど……」

 「息が切れたでしょう? 昔は参拝するまで険しい山道にも意味があったわけですからね。参拝に登ること自体が『行』ですから、それは当たり前のことです」

 「ははぁ、なるほど……それにしても、よくこんな場所を見つけましたね」

 「この道もね、地元の年配者は皆知ってる道なんですよ」


 脇倒れていた石碑を見ると、この朽ち果てた廟ですら明治の時代に建てられたものらしい。

 
 それにしても……一面ススキ野原の如く寂れている。この場にいる私たち10名の内この場所を知っていたのは立った二人で、他のスタッフもこれが初見だという。


 「これを立て直して客が来れるようにしたいんだけどね……修復費用は町が出すって言っているんだけど、問題は資材を運ぶ人手が足りないってことだね」

 「なるほど……」


 この主催さんは、史跡の発掘は町の復興に繋がる事業であると繰り返して言う。春日山城に登る事も三桁はくだらないという、とてもエネルギッシュな人だった。

 しかし、戦国の世にあの越後の龍が通ったという場所と道が、打ち捨てられているとはいえ今にも伝わっていることには感慨を覚えずにはいられない。

 ……そんな事思いつつ、今度は別の道を麓まで降って行ったのだが……これがまた恐ろしく急な斜面で、場面によっては駆け下りないと通行が困難という難所。ズボンの裾は簡単に汚れ、おまけに、種を運べとばかりに複数の草の種がくっついていた。

 
 権現堂への案内図、山の裏側にあるため発見は困難。下山ルートは「馬転坂」というらしい、どおりで……

 その後、重くなった足首を操りつつなんとか麓……駅側から見て裏側にようやく下山。下からふと、「あの枯れ木があるところが、さっきまで居た権現堂ですよ」と指差され、見上げて見るとなるほど、そこには言われた通りの枯れ木がしっかりと立っていた。

 
 遠景。写真ではよく見えないが……

 
 ズームするとこの通り。先の野原の写真と見比べられたし

 その後はスタッフ用に昼食が用意されているという場所までご一緒して昼食に預かりました。到着は15時と予定よりかなり遅れ長けれど運動後なのでそばがき汁や茗荷の梅漬けなどがなどがすいすいお腹に入っていきまする……美味い。

 それからスタッフの方々と歓談した後に解散、うちひとりの方の車で宿まで送ってもらい、一日目終了。

 宿の夕食は海の幸をふんだんに使った料理尽くしでとても美味しゅうございました(写真撮り忘れた……)。

 二日目に続く。


※1:毎年八月に行われる祭りで、具足に身を包んだ越後軍が上越の街中を練り歩いて当時の威風を現在に蘇らせる。今年、昨年は主役である上杉謙信役をNHK大河「風林火山」で謙信役を演じたGacketが熱演。殊に今年の祭りは行列参加者1000人、一般参加者14万人という一大イベントに発展した。

※2:この会話のうちで知った意外なことのひとつに、直江兼続が謙信と景勝、どちらの小姓から始まったのかが史家の間でも決着がついていないということ。「ガイドとしては両方話して(観光客に)好きなほうを取ってもらいますけどね」とのこと。

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2007年06月04日

Song探して。

 ふと、テレビで何気なく掛かった曲(クラシック)が耳に残り、曲名が思い出せずに苦悩。よく聞く曲である筈なだけに余計頭を抱えてしましました。

 気になって仕方が無いので仕事そっちのけで熱心に検索かけまくるものの、曲名がわかってないんじゃあ検索のしようがねえ!耳コピーなんて勿論無理だからおたまじゃくしもわからんし、鼻歌で検索かけても全く無意味。困った。

 O「・・・なんだっけ、今の曲?」

 相方(以下『相』)「ラデッキー行進曲だろ?」

 つhttp://8.health-life.net/~susa26/meikyoku/orchestra/radetzky-march.html

 O「違う、ちょっと違う!」

 相「行進曲じゃなかったか?」

 O「トルコ行進曲とか?」

 相「あれ、ベートーベンだろ?」

 O「へ、モーツァルトでしょ」

 つhttp://www.geocities.jp/manamana_net/main/dur_k_331.html

 相「いや、あれベートーベン版も有るんだわ」

 つhttp://www.asahi-net.or.jp/~uf5y-hsi/anch-1.htm

 O「なんてこった、余計にわからなくなったぞ・・・行進曲で片っ端から当たってみるか!?」

 つhttp://www.worldfolksong.com/anthem/lyrics/pat/gunkan.htm

 相「そりゃ軍艦行進曲(マーチ)だろ!グリーンマン(※1)呼んでくるぞ!」

 O「畜生、失せろ!・・・これか?」

 つhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Mendelssohn_kekkon.htm

 相「そりゃ結婚行進曲だ!」

 O「うん、フェリックスね。勿論わざとやった」

 相「テメエ・・・」

 つhttp://www.ne.jp/asahi/syumidouraku/desktop-music/stars_and_stripes_forever.htm

 O「えーと、ワシントンポストじゃなくて、国家の方か・・・って、コレじゃあいつまでいっても辿り着かんよ!思い出せなくて気持ち悪い!」

 相「なんかのCMで使ってたろ」

 O「くそう、メロディーは検索で引っかからない・・・クロ高でも似たよな話(※2)があったっけ・・・(以下鼻歌)」

 相「それはただの吉田卓郎の『人間なんて』だろ。クックドゥのCMで使ってなかったか?」

 つhttp://www.ne.jp/asahi/syumidouraku/desktop-music/pomp_and_circumstance_march_no1.htm

 O「いや、それ威風堂々ですよ。『Gロボ』や『あたしンち』(※3)じゃあるまいし。まあいいや、件の曲がかかってた番組で検索してみるべ・・・んお、Wikiで今日の放送について言及されてる・・・って、放映今終わったばっかだろ?早!」

 つhttp://goro4259.web.infoseek.co.jp/carmen51.htm

 相「それだ!曲名は?」

 O「組曲『カルメン』より闘牛士・・・あー、すっきりした。しかしオクラホマミキサーといい、勝手に歌詞付けた楽曲って多いですね・・・」

 相「『LoveSong探して』(※4)とかな」

 つhttp://monokuro.tv/cache/data/200206/03/members.tripod.co.jp/moon_lovesong/lovesong.swf

 O「『ふっかつのじゅもんがちがいます』・・・それ、楽曲は別にしろいい思い出ないんですけど。確かあったな、mp3で・・・(検索後再生)」

 相「それ、誰版だっけ?」

 O「ルーラ版です」

 相「いや、だったらそれ曲名違う、歌詞も変わってて曲名は『薔薇ふる空』だ」

 O「赤い夕日に誓いを立てたりするのか!?(※5)」

 相「ちなみに更に替え歌になってロッテ応援歌にもなってるぞ。曲名は『俺達の誇り』」

 つhttp://www56.tok2.com/home/MarinesRevolution21/ouen/oretati.MPG

 O「な、なんとっ!?」



 ※1:1973年東宝製作の特撮番組「行け!グリーンマン」のこと。挿入歌「グリーンマンマーチ」は軍艦マーチそのものを替え歌にして使用している。
 因みにそれを受けての私の発言「失せろ!」は同じく挿入歌「グリーンマンの挑戦状」の歌詞からの引用。名曲。

 ※2:野中英次著「魁!!クロマティ高校」内で鼻歌の曲名がわからずに悩むエピソードがある。アニメ化に当たってこの曲は吉田卓郎「人間なんて」が使用された。理由は同アニメのOP「純」を氏が歌っているからであろう。

 ※3:テレ朝系列アニメ「あたしンち」のED「来て来てあたしンち」はエルガーの「威風堂々」に日本語の歌詞を当てている、OVA版「ジャイアントロボ」ではやはりこの曲がBGMとしてよく使用される。

 ※4:FCソフト「ドラゴンクエストU」の『ふっかつのじゅもん』入力時にかかるBGMで、この曲はイメージソングとしても使用され「LoveSong探して」として発表、歌ったのは牧野アンナ。
 またこのFC版のみ、ヘルポイの町に「うたひめアンナ」なる住民を見かけることが出来る。詳細は以下のサイトに詳しい。
 http://shanghai.ram.ne.jp/dq/note/utahime.html

 ※5:1981年東映製作特撮番組「ロボット8ちゃん」のED「赤い夕日のバラバラマン」のこと。この「バラ」は「薔薇」ではなく、機械解体時の擬音を指す。「バラバラマン」とは劇中で主人公8ちゃんを目の敵としているロボット管理庁のお役人ので、このEDは彼の公務員としての悲哀を歌っている。
 また彩花みん著「赤ずきんチャチャ」に出てくるトゲ肌の教員「バラバラマン先生」の名称はこれのパロディと思われる。

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2007年04月19日

SYOGUN WARRIORS。



 ”SASUKE PROTECT MY LIFE FROM NINJA”
 ”YES SYOGUN”

 とはSNKのアーケードゲーム「サスケVSコマンダー」の冒頭のやり取りです。このSASUKE、残念ながらKOFからの招待状は届かなかった(※1)わけですが、今回のネタはこの”SYOGUN”です。

 将軍というと日本では基本的に征夷大将軍の事を指すわけですが、これについて一つ興味深いお話があります。米「TIME」誌の企画で「各世紀を代表する偉人」の一位、二位を選ぼうという企画がありました。この企画自体にどれだけの権威がある、というわけでもありませんが、これら偉人のうち、日本で選ばれた唯一の人物が源頼朝でした。理由は「頼朝は王朝権力を圧倒し、征夷大将軍の職に、独裁者としての重みを与えた。武家政権はその後、七世紀にわたって日本を支配し、武士精神は長く影響力を保った」というもので、なかなか客観的な視点で日本人では見逃しがちな事を指摘していると思います。

 この視点から見ると向こうで言う"SYOGUN"は「GENERAL」ではなく「TYRANT」という所でしょう。アメリカ人の感覚が”SYOGUN”を後者で捉えている場合、アメコミなどのムチャクチャな「ショーグン様」も日本で言う「首領」に相当するとすれば、まあ、多少なりとは納得できる気がしてきました。ただやはり、三船敏郎の影響で”SYOGUN”=”SAMURAI”というイメージがやはり欧米(※2)では一般的なようですが・・・将軍が侍であってはいかんです。


 さて、そんなSYOGUNの名を関するアメコミ、"SYOGUN WARRIORS(※3)"。発行を見ると79年、裏面広告はスタートレックでした。79年というとロボットアニメファンには分かり易い年ですね。



 またロボットの名称は海外でも同じようで、商品カタログのランナップ(画像2)では"SYOGUN WARRIORS"主要の「ライディーン」「コンバトラーV」「ダンガードA」以外にもグレートマジンガー・グレンダイザーやゲッターロボG、ガイキング、ダイモス、ボルテスVそして何故かシグコンタンク・シグコンジェット(大鉄人17)やバリドリーン・バリタンク(ゴレンジャー)などのイラストも。そして右下には「宇宙からのメッセージ 銀河対戦(※4)」のリアベ号!うーん、アメリカ逆輸入でしょうか。そしてやはり写っている怪獣はゴジラとラドン?

 さて、この号ではコンバトラーVSガンテの話のようです。ガンテはライディーンの敵メカなので見事に混ざってますね。今日ではスーパーロボット大戦のお陰で特に珍しい、というわけでもなくなりました。ただ登場人物を減らす為か、コンバトラーのパイロットはバトルジェット以外は操縦者がロボット、しかも頭にナンバーが入っているだけで型は同じという・・・それはちょっと、コンバトラーの意味がないのでは。しかし、ライディーンやダンガードと同列にした場合の配慮でパイロットを敢えて一人にしたのかもしれません。「VOLTRON(※5)」ではしっかり全員居たんですけど・・・まあ、こちらはフィルム輸入作品なので下手にいじくる方が手間ですしね。

 そして激しい戦闘のさなか、ガンテの拳骨アタックをからくも分離して避けるコンバトラー。このバトルマシンに対してガンテのとった行動は・・・




 ゲーッ、ガンテがフィンガー5に!?


 これでバトルマシンを仕留められなかったらこのぼくはもうグレちまうよ。(ガンテアキラ・談)



※1:他に招待状が届かなかったゲームに「ゲバラ」「Robo Army」などがある。

※2:勿論、この認識はアジア圏でも変わらない。特に忍者に至っては甚だしく誤解されているも、もはや国内でも変な忍者は多いのでどうしようもない。ただ韓国さん、李舜臣のアニメ劇中で日本忍者が亀甲船を破壊工作しに来るというのはやめませんか、いくらなんでも。

※3:マーブル社が東映から版権を借りて製作したアメコミシリーズ。主要ロボットはライディーン・コンバトラーV・ダンガードAの三体で、アメリカの平和を魔の手から守るのである。特撮ファンの場合、日本版スパイダーマンが78年に放映されたと言えばお分かりになるだろうが、この前後はマーブル社と東映の提携が盛んだったのである。

※4:78年東映製作の映画「宇宙からのメッセージ」の数百年後を舞台にしたTVシリーズで、東映京都製作所製作。劇場版との関連性は薄いが、かなり力を入れて製作された秀作である。内容は簡潔に言うと和製スターウォーズ。なお、前述の三船敏郎はダース・ベイダー役のオファーを断っている。

※5:日本のロボットアニメ「ゴライオン」と「ダイラガー]X」とを混ぜて製作された、アメリカのアニメ作品。こちらは”SYOGUN WARRIORS”とは違い、ゴライオン、ダイラガー共にボルトロンという呼称で呼ばれている。こちらはゴライオンを主軸にした再編集版。この二体は場所は違うが、同じ時系列で活躍しているという設定(主にナレーションで説明)で、一応二機が共闘するというアメリカオリジナルフィルムも製作された。しかし、これは日本のフィルムを継ぎはぎし、そこをアメリカのフィルムで縫い付けるという体制だったため、出来はイマイチ。そしてアメリカフィルムの箇所は画質の差で一発でわかる。

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2006年09月30日

意外な血筋。



 戦国武将・織田信秀の息子は12人居たそうだが、そのうち天寿を全うしたのは二人(信包・有楽斎)だけで、更に信包は暗殺説があるため、確実に天寿を全うしたと言えるのは有楽斎(織田長益)だけだという。後は嫡子・信長を含んだ全員が自決・若しくは他殺の目に遭っているという。

 だが信長直系といえば次男信雄(※1)と長男信忠の遺児・秀信(※2)などがおり、織田宗家は現在まで続いている(※3)。


 さて、そんな中で他にも信長の血筋がいないかと色々調べてみた結果、面白い事がわかった。詳しくは上図の通り。なんと『信長』と『家康』の血を引く大名家がいたのである。

 それは岡山藩主・池田宗家。家康の血を引く千姫と信長の血を引く本多忠刻の間に生まれた勝子が池田光政(※4)に嫁ぎ、以降この血脈は明治まで続いている。本多忠刻は父より先に夭逝し、嗣子も4歳で病没。忠刻の死後千姫は出家した為、その後に子は生んでいない。つまり勝子は信長と家康の直系を繋ぐ一粒種なのである。

 また池田宗家はこの二人に限らず、他に浅井長政・本多忠勝・池田輝政(※4参照)・榊原康政(※5)らの血が混じる。こと戦国武将は武将同士の政略結婚で互いを近しくする為、調べれば他にも公家などの名家が入り混じった家計は有るだろうが、「戦国武将」の血脈で括った場合、これだけ豪華なハイブリッドも中々無いだろう。


 さて、調べてみると池田氏の岡山藩、これも結構面白い。長いので箇条書きにて紹介。

 1. 池田家の始祖・池田輝政が姫路藩を拝領、輝政の弟・長吉は鳥取藩を拝領。

 2. 輝政の次男・忠継、三男・忠雄は母が家康の娘(督姫)であるためにそれぞれ岡山藩(※6)、淡路国六万石を拝領。輝政の嫡男・利隆は督姫の子ではなかった。だが実際は利隆が幼少の忠継に代わって岡山城で執政を執り、忠継は姫路藩に居続けた。

 3. 1615年、岡山藩主忠継夭逝(享年17)、後嗣なし。代わって忠雄が岡山藩に転封。淡路国は取り上げ、その後分割される。忠継が実際に岡山藩に入藩したのは没の一年前のこと。

 4. 1616年、姫路藩主利隆夭逝(享年33)。嫡子・光政、姫路藩主になるも、幼少を理由に鳥取藩に転封、池田宗家が鳥取藩になる。時の藩主であった長吉の嫡子・長幸は松山藩に転封となった(※7)。姫路藩は取り上げ、代わって治めたのは後の光政の祖父に当たる本多忠政。

 5. 1632年、岡山藩主忠雄夭逝(享年31)。後嗣は幼少を理由に鳥取藩に転封、代わって鳥取藩主光政が岡山藩に入封(岡山藩初代藩主(※8))。池田宗家が岡山藩になる。

 6. 光政以降、その血脈が順調に代替わりするも、五代斉政の嫡男が夭逝。薩摩藩主島津家より養嗣子を貰い、後を継がせる。ここで一端岡山藩主より池田宗家の血が絶える。

 7. 九代目岡山藩主・池田茂政(徳川慶喜の実弟)隠居により、備中国鴨方藩九代目藩主・池田章政(あきまさ)が岡山藩十代目藩主に迎えられる。この章政の曽祖父に当たる肥後人吉藩主(※9)・相良長寛は四代目岡山藩主・宗政の次男である。つまり章政は遡ると光政と勝子の血脈に当たる。

 8. 章政、藩主の折に明治維新が起こり、最後の藩主となる。章政は戊辰戦争では新政府軍に協力。岡山藩知事となるが廃藩置県により東京に移住、貴族院議員、第十五国立銀行頭取などを勤め、侯爵に列せられた。明治36年(1903年)、従一位となるも同年6月5日没。享年68。

 9. また、章政の子・政保は鴨方藩十代目(最後)の藩主となるが、同じく明治維新・廃藩置県により東京に移住。子爵に叙される。昭和14年(1939年)2月に東京にて没。享年76。

 補足、家康の血筋がより濃い鳥取藩池田家(『5.』に出る忠雄の後嗣・光仲以降)は三葉葵の紋の使用を許可されている。また、岡山藩よりも鳥取藩の方が若干石高が多い。


 一番近代まで追跡できた血脈・池田政保氏は昭和まで存命しているので、都内の池田さんは先祖を辿っていくと、氏に辿り着けるかもしれない。織田さん徳川さん武田さん子孫が普通に生活している現代だが、この池田さんを訪ねていくのも意外に面白いかも。


 ・おまけ 上図からわかる関係

 秀吉・信長 → 甥・叔父
 秀吉→長政・市 → 婿・義父母
 秀吉・秀忠 → 婿兄弟
 に、しても織田・徳川の蜘蛛の糸のような系図の中で間男のように存在している秀吉・秀頼親子って寂しいなあ・・・


 ※1:信雄は凡庸な二代目として有名、仮名である「三介」は「サンスケ殿」の語源。秀吉政権下で出家・領土没収などの目には遭ったが、徳川政権下には松山藩主として家名を保ち、子孫もしっかり残している。これが現在の信長直系。

 ※2:幼名の「三法師」の方が有名、清洲会議で秀吉に抱かれて出席した赤子その人である。徳川政権下の圧迫が原因で早死にし子供は居ないが、弟の秀則は女児を儲け、小笠原家に嫁いでいる。

 ※3:織田家の血脈で有名なのはフィギュアスケート選手の織田信成さんと僧の織田無道(自称?)。因みに宗家12代目当主も織田信成さん(82歳、2004年現在)という。

 ※4:池田光政は戦国大名池田輝政の嫡孫にあたり、名君の誉れが高い。輝政は秀吉の仲介で家康の娘・督姫を貰うが、督姫と光政には血の繋がりは無い。
 更に遡って輝政の父・池田恒興は織田信長の乳兄弟で、犬千代(前田利家の幼名、以下略)、万千代(丹羽長秀)、勝三郎(池田恒興)といえば吉法師(信長)の悪友たちである。

 ※5:池田光政の母は榊原康政の娘。

 ※6:この前に岡山を統治したのはあの小早川秀秋(ねねの兄の息子、秀吉の甥)。が、彼は関が原の戦いのすぐ後に病死、後嗣は居なかったので小早川家は改易、断絶となった。
 小早川家は吉川家と共に毛利家の重臣で「毛利の両川」と呼ばれ、時の当主、吉川元春と小早川隆景(共に毛利元就の実子)は名将であったために、秀吉は小早川家を独立させ、野心を煽って毛利の戦力を削ごうと画策した。が、隆景は「天下を狙うな(毛利家を支えよ)」との父の遺言を忠実に守ってその策には乗らず、逆に後嗣の決まらぬ毛利家に秀秋が養子になりそうになった所を、同じく後嗣の居なかった小早川家が(先手を打って)貰い受け、主家の血脈を守っている。

 ※7:この後二代目に後嗣が居なかった為、松山藩池田氏は廃絶。代わって水谷氏が治めることに。

 ※8:便宜上光政を初代藩主としているが、宇喜田秀家(小早川秀秋のひとつ前の統治者)から数えると五代目藩主になる。

 ※9:章政の父・相良頼之も肥後人吉十四代目藩主。頼之の祖父長寛は十二代目。章政は次男だったので岡山藩の支藩である鴨方藩の養嗣子に出された。

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2006年05月05日

屈原を讃う。

 「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」は江戸時代に作られた川柳である。確か教科書に載っていたので記憶している人も多いと思う。

 田沼意次の後に政権を握った松平定信の倹約政治の締め付けがあまりにも厳しいので賄賂政治であっても規律の緩やかだった田沼の政治は良かったと、と言う意味である。ただ賄賂政治に関しては松平が前政権への印象を悪くするために必要以上に喧伝した側面もある。この辺の体質は今も変わっていない。


 しかし、紀元前に施政家でありながら濁り水を潔しとせず河から去り、中央の腐敗を憂いながらも力及ばず亡くなった人物がいる。時太陰暦五月五日、人々は彼の慰霊のために竹の葉で包んだ粽(ちまき)を川に投げ入れ、それが粽を食べる習慣に転じたそうである。これ、即ち現在の端午の節句の由来と言われている。

 彼の性は屈、名は平、字を原という。一般的に「屈原」の名で知られる。時春秋戦国時代、中国社会は蘇秦・張儀の合従連衡策(※1)に翻弄されていた時代である。屈原は優れた政治家であったが中傷に遭い、政治中枢から遠ざけられる。後、国は進退窮まり屈原は再び中央に召還。彼は合従を主張し、逆に連衡を説く論客・張儀(※2)を消す事を進言するが、この懸案は取り入れられず、主君は秦に呼び出された後客死(※3)。世間は彼の見識を称えたが、これを嫉んだ同僚が讒言。彼は再び流浪し、国の未来を憂慮したまま入水自殺を図った。


 彼は優れた詩人であり、彼の創始した古代歌謡形式「楚辞」からは内に強烈な自己主張と病的なまでの渇望を感じる。特に憂国の志を詠った「離騒」は中国四大名文(※4)に数えられている。(参考:http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book7.html

 詩中の彼(※5)も勤勉に励み仕官するも、讒言に遭い世間とは容れられない存在となってしまった。終に神話の世界に達するも、やはりここも心が通じ安息する場所はではない。天にも地にも見放され、未練に身を引き裂かれそうになりながらも、いずこかへ立ち去っていく。私の心の拠り所は古の賢人のみある・・・

 潔癖に過ぎる。彼はまた「世を挙げて混濁するに我れ独り清み、衆人皆な酔えるに我れ独り醒む」と述べている。やはり病的なまでの心の潔癖を感じる。一般に「水清ければ魚棲めず」というが、彼は逆に清すぎる水に有らずば棲めず、また一片の混濁をも我が身に許さなかった。しかし悲しいかな大多数の魚は清き水には棲めない。故に彼の人生で同じ性質を持つ同種の魚に巡り合う事は出来なかった。即ち孤高の人である。

 しかし孤高とも有らねば望めない境地もある。それはまた多くの人が理想としつつも夢想のものであると考えずにはいられない境地でもある。故に理想と偽らざる現実に務めた彼の言は表裏の生まない名文となったのだろう。だが、孤高を貫かねば夢想と嗤われる理想とはなんという皮肉だろう。


 彼の死後幾年経た現在においても彼の文は人の心を震わすと共に、彼の示した点へと続く道を歩む者は稀有にて、茫洋の域を出ない。彼の死に臨んで人々が川に粽を投げ入れたのは、魚が粽を食べる事によって川に消えた彼の遺体が食い荒らされないようにと祈ったものである。人が粽を食べるようになった今日、せめて彼の思想が完全に食い荒らされないようにと祈って噛み含みたい。



※1 戦国時代は主に戦国の七雄(秦、燕、趙、魏、韓、斉、楚)が互いに覇を競っていた時代で、この時は法家・商鞅の制定した政治体系を基盤に合理的な富国強兵に成功した秦が最大の強国となっていた。他の六国は協力して秦を打倒(合従)するか、それとも秦に臣従して生き残りを図る(連衡)かの判断を迫られたわけである。先に合従策を説き回り秦包囲網形成を成功させた論客が蘇秦、逆に連衡策を説き包囲網を各個瓦解させていったのが張儀である。尚、この二人は同じ師の元で学んでいる旧知の仲。

※2 とはいってもその時の張儀は7国中最大の強国・秦の宰相であり、並の論客ではなかった。

※3 彼はこれもやめるようにと進言しているが、阻まれて届くことはなかった。

※4 残りの三つは
 諸葛亮「前出師の表」
 文天詳「正気歌」
 岳飛「満天紅」。
各人とも当代を代表する憂国の士であるが、その何れも悲願を達成させることなくこの世を去っている。

※5 詩中の主人公は屈原のペンネームが使われている。

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2006年03月16日

チェストー!

 という言葉、割と最近まで英語だと思ってました。それが薩摩示現流の掛け声だと知ってあっと驚き。示現流といえば「二の太刀要らず」の剛剣で、私の初見は「るろうに剣心」だったと思います。「新撰組」に興味を持ち始めた時から体系付けで知るようになったのですが、「スーパーロボット大戦」シリーズのゼンガーというキャラが示現流の使い手で最大の技が「雲耀(うんよう)の位」と言いました。知らない単語なので調べてみた所、これは示現流における速度の極まりの事だそうです。具体的には


 「刻(二時間)を八十四に割りて、その一つを分とす。この分をたとうれば、脈一息にあたる。
  分を八つに割りて、その一つを秒とす。
  秒を十に割りて、その一つを糸とす。
  糸を十に割りて、その一つを忽とす。
  忽を十に割りて、その一つを毫とす。
  毫を十に割りて、その一つを厘とす。
  厘きわまりて、雲耀なり。(示現流兵法書より)」

 ・・・余計わかりません。

 でもそれだと納得いかないので電卓を出すことにしました。二時間=120*60=7200秒。これを84で割ると、

 7200/84≒85.71428571。
 これを8で割ると
 ≒10.71428571。

 ・・・昔の一秒は今の十秒に当たるのか?

 同様にすると

 忽≒0.107秒、
 厘≒0.001秒。

 示現流は剣を振るう速度が早きを良しとしてしているので、この瞬速0.001秒の世界を理想に抱く流派のようです。(※1)


 因みに忽はおそらく「いきなり」の意をもつ「忽然」の時間単位を示していると思うので数字を出してみました。

 他に短い単位というと「刹那」でこれは仏教用語、その具体的時間は六十五分の一や七十五分の一など諸説ありますが、これを現在の時間単位に直してみると、仮に七十五分の一として

 刹那≒0.013秒。忽≒0.107秒なので速さは刹那>忽然となります。

 しかし雲耀>刹那は驚き。刹那とは「生と死を繰り返す単位」と仏典で説かれている速度。それを凌駕して剣を振るとはどういう境地なのでしょう。

 話を戻して、示現流は「一の太刀(※2)を疑わず、二の太刀は負け」という一撃必殺を旨とする流派。生麦事件ではイギリス人の内臓を一刀の元に抉り出し、「幕末四大人斬り」の田中新兵衛(桐野利秋)、中村半次郎(※3)も示現流(※4)。幕末で示現流に敗れた遺体は袈裟掛けに肩から臍まで綺麗に裂かれている為すぐにわかったそうです。新撰組局長の近藤勇が「薩人の初太刀をはずせ」とくどく隊士に説いたのは有名。

 また伝に寄れば「雲耀」を説いた示現流祖・東郷重位が「斬るとはこういうことだ」と高弟の前で刀を抜いて発声一番、傍らの碁盤を斬りつけたところ刀は碁盤を割り、畳を割り、それでも威力は相殺されず、床下の根太の半ばまで斬り込まれていたそう。

 これこそが示現流で理想とされた初太刀なのでしょう。しかしどれだけの鍛錬を積み重ねれば斬撃の刻にこれほどの必殺要素が収束されるのか。戦国〜江戸期らしい「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高みを知る」の実例の一つだと思います。



 ※1:特撮で例えるとシャリバンの「赤射」とシャイダーの「焼結」(共にコンバットスーツ着用まで所要時間のこと)が同じ1ミリ秒=0.001秒。現実に考えるといかにファンタスティックなSF設定であるかがわかる。しかし先の文を引用すれば「この分をたとうれば、脈一息にあたる」なので、分=現在の一秒位に考えているのかもしれない。そう考えると雲耀は更にファンタスティックだ。

 ※2:塚原ト伝秘太刀「一の太刀」の事ではない、念のため。

 ※3:後の二人は岡田以蔵と河上彦斎(剣心のモデル)。中村半次郎の居合いは俗に「中村流居合」と呼ばれており、行き交いざまに抜刀、斬撃を繰り出すまでの動作中歩調が変わることなく、しかも必殺だったという。「幕末三大人斬り」といわれた場合、この中村半次郎は入らない。

 ※4:厳密にはこれらの示現流は薬丸派=野太刀自顕流の方らしい。

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